暖冬でずっと暖かかっただけに余計にこたえました。
とはいえ、今日明日まあまあ寒いくらいで、週の半ばにはまた
ぽかぽかとしてくるようです。
今年はもう雪は降らないでしょうねぇ…
-------- 目次 --------
■ 今日の映画
百萬両秘聞
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■ 今日の映画 − 百萬両秘聞
--cinema1917-----------
百萬両秘聞
1927年,日本,124分
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<キャスト&クルー>
監督 マキノ省三
原作 三上於菟吉
脚本 山上伊太郎
撮影 松浦茂
キャスト 嵐長三郎
市川小文治
山本礼三郎
尾上松緑
松浦築枝
<評価>
☆☆☆☆(満点=5)
<プレヴュー>
幽霊野という荒野にのぞむ老夫婦の家、そこに立ち寄りひとりの
若侍が荒野に旅立っていった。その夜、彼らの息子も家を訪ね、若
侍が幽霊野にいったということを聞いて後を追う。ふたりは古塚に
隠されたという百万両の隠し場所を記した絵図を探していたのだ…
嵐寛寿郎が嵐長三郎時代に出演したマキノ省三監督による時代劇
サスペンス。昭和2年のこの作品がほぼ完全な形で残っていること
だけでも奇跡的であり、それだけでも見る価値がある。
<レビュー>
マキノ省三は映画について常々「一スジ、二ヌケ、三ドウサ」と
言っていたという。これはつまり、映画は一にスジ(脚本)、二に
ヌケ(映像)、三に動作(役者)が重要だということであり、まず
ストーリーがおもしろく、次に映像がキレイで、最後に役者の縁起
がよければいい映画が作れるという彼なりの哲学であった。その哲
学がゆえにマキノ省三は脚本家を厚遇し、大事にした。この作品の
脚本家である山上伊太郎は省三が最後にひいきにした脚本家と言っ
ていい。その前には寿々喜多呂九平や三村伸太郎がいたが、晩年の
彼の作品は山上伊太郎が多く脚本を書いている。
そして、この作品は確かにプロットが素晴らしい。物語は荒野に
望む老夫婦の家に始まり、そこにひとりの若侍と夫婦の息子が順に
訪れる。そして、その荒野の只中にある古塚に“百万両”の隠し場
所を書いた絵図があるというのだ。しかし、その若侍・春水主税
(嵐長三郎)が掘り出したものは一首の短歌に過ぎなかった。主税
はその短歌の謎を解こうとし、その事情を知らない夫婦の息子であ
る通り魔の半次(市川小文治)は彼が百万両のありかを知ったに違
いないとして彼を追う。そして半次はお上にも追われ、親分を頼ん
で行くのだ。ここまでですでに謎解きとおっかけっこという、観客
が次の展開に胸を躍らせる要素が出揃っている。
そして、それにさらに“女”を加える。嵐長三郎というスターが
いるがゆえに、彼を絶世の美男という設定にし、そこにふたりの女
を登場させるのだ。ふたりの男の思惑に、ふたりの女の思惑が絡み、
物語はより複雑に、そしてよりおもしろくなっていく。
マキノ雅広は後年この山上伊太郎を評してサイレント時代はいい
ホンを書いていたといった。彼いわく山上伊太郎はトーキーにはロ
マンティックすぎるというのだ。その言葉について考えながら、こ
の作品を振り返って観ると、サイレントとトーキーの脚本の違いと
いうのが多少見えてくる。まずサイレントの脚本はわかりや少なけ
ればならない。トーキー映画は言葉によって状況や物語を説明でき
るが、サイレント映画ではそれを基本的には映像と文字で説明しな
ければならない。活弁が入ることが前提となってはいるが、それで
もやはり、どうしても説明しなければならない部分はインタータイ
トルとして文字で入れなければならず、しかもあまり文字が多いと
映画の展開の邪魔をしてしまうため、極力少なくしなければならな
い。だから、なるべく物語はわかりやすく、出来れば映像を見てい
るだけで何が起こっているのかがわかるように組み立てるのが理想
的ということになる。山上伊太郎の脚本はこのわかりやすさを備え
ている。わかりやすい物はその多くがワンパターンというか、ひと
つの型にはまりやすい。マキノ雅広はそれを称して“ロマンティッ
ク”と読んだのだろう。トーキー時代になると、脚本はわかりやす
さよりも観客を驚かすような展開を求めるようになる。山上伊太郎
は結局その流れについていけず、トーキーの時代にはあまりいい脚
本が書けなくなってしまったのだ。
しかし、この作品はサイレントであり、普通に観ているとこの脚
本は素晴らしいし、トーキーだったら面白くないとも思われない。
トーキーとサイレントでは観客の映画の見方も必然的に変わってき
てしまうものらしい。特に日本のサイレント映画は活動弁士がつく
ことが前提となっているので、外国のサイレント映画ともまた違う。
外国のサイレント映画は映像と文字で全てを説明しようとし、特に
ほとんど全てを映像で表現しようとする。だからほとんどセリフは
なく、動きや表情による独特の文法が生まれた。しかし日本のサイ
レントでは活弁士がセリフをしゃべるから、口だけを動かしている
という映像が多く出てくる。重要なセリフは文字で説明されるが、
ほとんどのセリフは活弁士がしゃべるのだ。この作品はそんなにほ
んのサイレント映画に非常にマッチした作品である。もちろん活弁
士のよしあしによって映画のおもしろさが変わってきてしまうとい
う問題はあるが、私が見た澤登翠による活弁版はおもしろかった。
活弁を吹き込んだのが最近であるため、録音の状況が悪くなかなか
セリフが聞き取りにくい初期のトーキー映画よりむしろわかりやす
かったのではないかとも思う。
というように、この作品ではサイレント独特のホンのおもしろさ
が十分に楽しめ、マキノ省三いうところの「一スジ」は見事にクリ
アしているといえる。
しかし、二ヌケのほうはどうか。照明やカメラの質の問題があり、
もちろん現在とは撮影状況がまったく違うが、今から見ると映像の
ほうは少々つらい。なんと言っても夜の表現がうまくない。当時の
カメラだと、ちゃんと被写体を「ヌク」には相当の光量を必要とし、
夜の場面でも役者にライトを当てないと顔が映らなかったという事
情はわかる。しかし、この作品では夜と説明されるシーンも昼と説
明されるシーンもほとんど違いがわからない。言ってしまえば夜と
昼の違いは夜と説明されるかそれとも昼と説明されるかの違いでし
かないのだ。夜らしい映像が取れないのなら何か別の形で夜を表現
すればよかったのではないかと思う。
三ドウサのほうはなんと言ってもスター嵐長三郎がいる。あごが
長いが確かに美男子、そして立ち回りも最高だ。彼はまもなくマキ
ノを脱退し、嵐寛寿郎と名乗って押しも押されもせぬスターになる
が、この頃からすでにスターの風格が漂っていた。
そんな嵐寛にどうしても注目が集まるが、私は通り魔の半次を演
じた市川小文治という役者が非常にいいと思った。美男子ではない
が阪妻を髣髴とさせるようないい表情をしている。彼は東亜・マキ
ノ・千恵蔵プロ・日活を渡り歩いた名脇役だった。
省三がいくら「一スジ、二ヌケ、三ドウサ」と言っても映画は脚
本化だけで作れるものではない。脚本、カメラ、役者、演出、そし
て数多くの裏方、その全てがそろって初めて映画が出来る。省三は
もちろんそのことを知っていたからこそ、脇役に彼のように非常に
いい役者を起用したのだと思う。しかし、それでもやはりまずホン
がなければいい映画は取れない、いい映像がなければおもしろい映
画にはならない。そして、いい俳優がいなければ客を呼べない。演
出家はそれだけそろっていれば誰でも出来ると言ってみたのだろう。
マキノ雅広は父よりもさらに映画が多くの人間によって作られる
ということを重視した。プロットのよさで観客をひきつけた父とは
違う作品作りを、雅広は日本にトーキーを確立して行く中で身につ
けた。そのため山上伊太郎のような“ロマンティック”な脚本家と
は袂を分かつことになったわけだが、彼も認めているサイレント時
代の山上伊太郎の本のおもしろさを十分に楽しむことが出来るのが
この作品である。
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<今日の作品:百萬両秘聞>
ビデオのみ:『アポロン活動大写真 百萬両秘聞』
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