http://www.cinema-today.net/
--cinema:s1-04-----------
クラッシュ
Crash
2004年,アメリカ,112分
-------------------------
<キャスト&クルー>
監督 ポール・ハギス
脚本 ポール・ハギス
ボビー・モレスコ
撮影 J・マイケル・ミューロー
音楽 マーク・アイシャム
キャスト サンドラ・ブロック
ドン・チードル
マット・ディロン
ジェニファー・エスポジート
ブレンダン・ブレイザー
ライアン・フィリップ
<評価>
☆☆☆1/2(満点=5)
<プレヴュー>
ある夜、交通事故にあったロサンゼルス市警の刑事のグラハムは
その近くの現場で発見された死体を見て驚く。その前日、黒人の2
人組が検事の車を強奪、その妻ジーンはパニックに陥る。ペルシャ
人の店主ファハドは娘を伴って銃を買いに行き、警官のライアンは
父の病気のことでクリニックに悪態をつく。
クリスマスを間近に控えたロサンゼルスで、様々な人種の人々が
差別と偏見に翻弄されるさまを描いたサスペンス・ドラマ。アカデ
ミー作品賞を受賞した。
<レビュー>
この映画の明らかなテーマは“人種”である。白人、黒人、ヒス
パニック、アジア人、ペルシャ人、それらの人々が互いに対して持
つ偏見が人々の行動を狂わせ、運命を狂わせる。
アメリカで人種についていうと、なんと言っても黒人に対する差
別に意識が行くが、差別はそれだけではない。単純化すれば白人を
頂点とするヒエラルキーが存在し、白人の下に黒人がおり、その下
にヒスパニックやアジア人と言った人々が存在することになるわけ
だが、もちろん制度上はマイノリティと呼ばれる人々は一緒くたに
されて、差別を撤廃するための優遇措置がとられている。
そのような差別を撤廃するための動きは当然のことだし、これま
での歴史を見ればある程度の強制力がなければ差別というモノがな
くならないことは明らかである。
しかし、そのような対極的な、鳥瞰的な視点からでは見えない問
題が無数に存在することをこの映画は示そうとしている。
たとえば、マイノリティ同士の差別意識、最初の事故のシーンで
アジア人の女性がヒスパニックの女性に向けて放つ侮蔑の言葉、そ
れはマイノリティが差別を受ける側にとどまるのではなく、同時に
差別する側でもあるということを如実に示す。そしてそれは「白人」
や「黒人」という概念を持ち出すことによってより複雑になる。ド
ン・チードル演じるグラハムの恋人リアはグラハムが自分のことを
母親に「白人女」と言ったことにショックを受ける。これは自動車
泥棒の黒人二人組のもつ白人に対する偏見と根を同じくするもので
ある。差別の主体としての白人に対する嫌悪、それが拒絶という形
で表れるのである。
そして、それはまた人種差別主義者である白人警官のライアンの
意識とも関係してくる。彼は黒人を差別するが、それは彼のような
“プア・ホワイト(あるいはレッド・ネック)”と呼ばれる白人に
よく見られる現象である。彼らは黒人が優遇されることによって直
接的な不利益を受けてきた。それがいわゆる“逆差別”と意識され、
マイノリティに対する反感を強めるのだ。
あるいは、そのようなプア・ホワイトではなく、マイノリティに
対する差別意識を持っていない(と周囲にも思われているし自分も
思っている)ような白人であっても、どこかに差別の前段階ともい
える偏見を抱えているということも問題化されている。サンドラ・
ブロック演じる検事の妻ジーンなどはそのような意識にさいなまれ
る典型的な人物であるし、人種差別的な同僚の行動に眉をひそめる
警官のハンセンでもその呪縛から逃れられないということが映画の
クライマックスで衝撃的な形で明らかにされる。
いったいこれは何なのか、たとえば黒人に対する潜在的な恐怖心
というようなものは“ネグロフォビア”と名づけられ、社会的なシ
ステムの問題と定義されるが、そのように言葉によって定義するこ
とにどのような意味があるのか。結局、偏見や差別という問題が表
面化するのは個人のレベルである。人種の異なる人同士が1対1で
向き合うとき、そこには生の偏見や意識が現れる。それは人間が他
者に対して持つ普遍的な恐怖が人種という社会的な異化によって増
幅されたものである。例えばある白人の女が黒人の男に出あった時
には、「黒人は乱暴である」という刷り込みによって白人の女は白
人の男に出あった時よりも強い恐怖を覚えてしまう。
それはもちろん人種以外の要素でも起こりうることだ、例えば相
手が大きいとか顔が怖いとか。しかし、人種という要素が特に顕著
なものとして浮かび上がってくるのは、それが「理解できないもの」
に対する恐怖とつながっているからだ。人間は他者の中でも特に理
解できない他者に恐怖を覚える。それは相手が何をするかわからな
いからだ。そして、見た目が自分とかけ離れているものほど「理解
できない」と考えがちである。だから、見た目が自分とは異なる違
う人種の人間に対して恐怖を強く覚えるのである。その原理が歴史
によって増幅され、人種と人種の間に産めることのできない溝を生
み出してしまった。
だから、個人のレベルにおいてもそれは根深く残ってしまう。し
かし、この映画はそこで突き放すことはしない。その溝を埋める可
能性も個人のレベルにはあるということを何とか示そうとしている
のだ。それが端的に現れるのはペルシャ人の店主ファハドのエピソー
ドである。彼が経験したような“奇跡”がその溝を埋めるのだ。
しかし、この物語全体はそのような“奇跡”を完全には信じてい
ない。それで全てがうまく行くなどという絵空事を唱えはしない。
だからこそこの作品の結末にはどこか空虚な絶望が残る。人種とは
関係なく、人と人とは結局は完全に理解しあうことはできない。そ
のような当たり前のことに対する諦めがそこにはあるように思えて
ならない。






